勝利者の瞑想法-要約 第一章 今、なぜ瞑想か-魂とカルマ
魂とは、真我を意味し、インドではアートマンと呼ばれる
ウパニシャッドではアートマン(魂)とブラフマン(梵)を認めている
サーンキャ哲学とジャイナ教ではアートマンだけを認めている
シャカ・ムニ・ブッダはアートマンもブラフマンも認めていない
仏教はのちに大乗化していく過程でアートマンもブラフマンも認めるようになっていった
マハーヴィーラの哲学とブッダの哲学に共通しているのはカルマ(業。生き物の行為、体験などの情報が記録されているデータ。)についての考え方
両者は、宇宙は神により作られたものではなく、カルマにより縁起しているだけと考える
マハーヴィーラはアートマンにカルマがついていると考えた一方、ブッダはカルマの集合を認めたがアートマンに付随しているものではないと考えた
ブッダは魂を認めることは、「我執我欲の利己心を増長するだけで、人生の価値を増進するうえで何の役にも立たない」と考えた
ブッダは不変の魂はないと考え、生命活動という特殊な活動があることは認め、無我を主張
生命は、始まりもなければ終わりもない無始無終、固定的なものではなく常に変化しながら続いていくもの
生命活動の本質は渇愛(愛欲、意欲)であり、渇愛がカルマ
ブッダ以前の哲学の主流は魂にカルマがついていると考えたが、ブッダはカルマだけで魂はないと考えた
人間の本能的欲望から起こる意欲を無明(無意識的衝動・カルマ)と呼び、それが原因となって活動行為(サンカーラ・行)が引き起こされる
心の働きの認識力(識)が、観るもの(主観)と観られるもの(客観)を識別する
識により心と身体ができあがる
カルマとは意志のことで、その人の先天的性格、気質、人格
あるいはカルマとは因縁(その人の内なる要因が外界からの刺激・縁に接したとき、その人の人生上に起こって来るあらゆる体験)ともいえる
カルマに対する取り組みが新たなカルマになり潜在化する
カルマにより自由を奪われているのが我々の生きている状態であり、自分に現れてくる全ての事実がカルマの現れ
人間の経験集積は習慣や癖(カルマ)として潜在意識化し無意識的に次の意志活動に一定の方向性を与える
ブッダは魂にカルマがついているのではなく、カルマそのものが輪廻すると考え(魂の存在を否定)、あらゆる生き物にカルマがあり、それが未来を創造する原動力になっている
マハーヴィーラは魂にカルマの汚れがついていると考え、カルマの浄化を修行の基本とした
カルマが種となり、それに応じ自分の体がどのように形成されていくのか、五蘊(ごうん。色 受 想 行 識。)の現れ方はどうか、生まれてくる環境も導かれる
生物の種類、運命において差異が生ずるのは、それぞれの業、性格の違いによるとブッダは考えた
前世に現世が加わった結果、性格が変化形成され、命の絶えまない一定の連続が生まれるとブッダは考えた
ブッダは生命の生まれ変わりを認めたが、生命≠魂と考え、生命=性格の連続性と考えた
ブッダはカルマとして輪廻するものは性格であり、記憶は肉体とともに滅するため、後生には続かないと考えた
生命の無限継続とは、無限生まれ変わりであり、無限輪廻であるため、今の一瞬が大事であり、今の一瞬を最善にすることがカルマをなくす最良の修業
カルマ論は自業自得の真理を教えている
運命の作り主は自分自身、自分を助けるものは自分自身、法灯明自灯明と仏陀は説く